東京地方裁判所 昭和27年(行)149号 判決
原告 松本治一郎
被告 外務大臣
一、主 文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
二、事 実
原告訴訟代理人は、「原告が昭和二十七年九月十五日附でした、北京市で開催されるアジア大平洋地域平和会議参加のための中華人民共和国行き旅券発給申請に対して、被告外務大臣が昭和二十七年九月十九日にした不許可処分(翌二十日通知)はこれを取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決を求め、請求の原因として、また被告の主張に対して、次のとおり述べた。
昭和二十七年三月、中華人民共和国(以下中国と略称する。)の宋慶齢、郭沫若、馬寅初、劉寧一ら十一名の人々から、アジア大平洋地域平和会議召集について参加方勧誘の案内が、訴外平野義太郎、大山郁夫、末川博、清水幾太郎らを以て組織する平和擁護日本委員会にもたらされた結果、四月二十一日、アジア大平洋地域平和会議日本準備委員会が、政党政派に偏せず広く平和愛好者を構成員として設立され、原告もこれに参加して準備委員の一人となつた。右準備委員会では、五月二十八日から(後に六月三日からと延期された。)北京で開かれるアジア大平洋地域平和会議準備会議出席の招請を受けて、原告及び訴外神近市子、宇田耕一、大山郁夫、畑中政春、桜沢如一の六名を日本代表として選出した。原告ら六名は右会議に出席するために外務大臣に対し旅券の発給申請をしたが、外務大臣から昭和二十七年五月三十一日附で「旅券法第十九条第一項第四号及び同法第十三条第一項第五号の趣旨にかんがみ、旅券の発給を行わないことに決定したから、右お知らせする。」との通知があり、旅券の発給を得られなかつたので、同会議に出席することができなかつた。たゞ同会議には、たまたま中国に滞在中であつた高良とみ、帆足計、宮腰喜助の三名が日本代表として出席した。
右北京の準備会議の結果、本会議が昭和二十七年九月の最後の週(のちに九月二十六日からと明らかになつた)に北京で開かれることとなつたので、前記日本準備委員会では広く全国に呼びかけて右本会議参加の候補者を募つたところ、絶大な反響を呼び、各地方から推せんされた各界の候補者は五百名近くに上つたが、そのうち一応原告らを含む六十名の人々がせん衡された。そこでこれらの人々は昭和二十七年八月末頃からそれぞれ外務大臣に対し旅券発給の申請をしたが、原告は前記のように、前回の申請に対し旅券の発給を拒否されているので、今回は予め政府の方針を打診すべく、外務省当局と折衝した。なお原告のみは、九月三日、在中国の準備委員会総書記長劉寧一から、九月十五日までに中国に来るようにとの、電文による招請をも受けている。
原告は、九月五日から渋沢外務次官らに面会して、旅券発給の要請をした上で、昭和二十七年九月十五日被告外務大臣に対し、「北京市で開催されるアジア大平洋地域平和会議参加のための中華人民共和国行き旅券」発給申請書を提出した。これに対し、外務大臣は、昭和二十七年九月十九日、「旅券法第十九条第一項第四号及び第十三条第一項第五号の趣旨にかんがみ旅券の発給を行わない」と決定し、翌二十日その旨記載した書面を原告に交付し、右決定を通知した。
しかしながら旅券法第十九条第一項第四号は、元来旅券の返還に関する規定であつて、本件のように、未だ旅券が発給されない前に適用さるべきものでないのみならず、昭和二十七年八月中旬前記日本準備委員会事務局長畑中政春宛、劉寧一から、本件会議参加の代表らに対する安全は中国政府が保障すべき旨電報がきており、原告らの生命自体の安全は中国政府が保障している。またさきに中国を訪れた帆足、宮腰、高良らの先例もあることであるから、右の条項を理由として保護の押売をするには当らない。次に同法第十三条第一項第五号によると、「外務大臣において著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に対しては、旅券の発給を拒否することができることになつているが、これはその文字の上からいつても、また同条第一項本文及び各号の書き方からみても、旅券発給申請者個人の資格をさすものであること明らかである。原告は前参議院副議長の要職にあつた者で、かかる条項に該当する者でないことは、いうまでもない。元来旅券法のこの規定は基本的人権の一たる海外渡航の自由を制限できる場合を規定しているのであるから、これが解釈適用は極めて厳格にすべきもので、「趣旨にかんがみ」というがごとき拡張解釈をなすべきものではなく、又本条が「著しく且つ直接に」という字句を用いたことは、例えば密輸出常習者の場合のように、その害悪の発生が顕著であるのみならず、それが申請者本人の行為から直接発生するごときものでなければならない。原告らは国益増進の見地から本件申請をなしたもので、この間政治的見解の相異はあろうが、旅券法の規定は、時の政府の政見にもとづいてほしいまゝに基本的人権を制限することを許したものではない。およそ民主々義社会においては、広く見聞して知識を広め、長を採り短を捨てることが許さるべきであつて、そこに社会の進歩がある。憲法が基本的人権として表現の自由と共に海外渡航の自由を保障しているゆえんもここにあるのである。
百歩を譲つて本条項が会議の性質等によつて左右されるとしても、元来本件会議は前記のように、平和達成を目的とするものであるから、戦争を放棄した日本国憲法の精神に適合するものであり、いわんや国益公安に対し、著しく且つ直接に害を与える性質のものでないことは明らかである。
かように被告外務大臣の決定は違法不当であるから、原告は、同年九月二十二日外務大臣に異議の申立をしたが、その裁決を待つていては前記会議出席に間に合わないから、裁決を経ないまゝで、本訴において被告外務大臣の旅券発給拒否処分の取消を求める。
被告の主張について次に述べる。「渡航費用支払能力を立証する書類一通」を提出しないことを、被告が、旅券発給拒否の理由としたことはない。たとい右のことを旅券発給拒否の理由としたとしても、原告は被告のいう書類を提出しており、その書類は、北京からの帰りの渡航費及び滞在費を、本件会議の本部準備委員会が支払うことを保証した書類として十分なものであるから、被告の主張は理由がない。
海外渡航の自由は憲法の保障する基本的人権であるから、旅券法第十三条第一項第五号によるその制限は、厳格に解釈適用しなければならない。原告は国を代表するのでなく、個人の資格で本件会議に参加するのであるのみならず、日本国は、旅券を発給することによつて原告が本件会議に参加することを勧奨するわけではないから、原告が本件会議に参加したことによつて、被告のいうように日本国の利益を害することはない。なお旅券法第十三条第一項第五号について被告のいうところは、結局原告その人についてでなく、それ以外の渡航先とか会議の性質とかによつて渡航を制限することになるのであつて、右法条の解釈としては不当である。
旅券法第十九条第一項第四号はあくまで一旦発給した旅券を返納させる規定である。そのことは、右法条が「保護のため渡航を中止させる必要があると認められる場合」と規定するのみで、厳密な要件をきめていないことによつてわかる。のみならず右法条は申請者保護の規定であるから、原告があえて危険を冒しても渡航を希望している本件においては、右法条の適用の余地はない。被告主張の抑留同胞だ捕漁船の数は知らないが、仮りに被告主張の通りとしてもこれについて適当な対策を立てるためにも渡航の利益があるのである。
なお本件会議の性質について、重ねて説明する。本件会議はインドの平和運動者の提案により、北京で開催されることになつたもので、その準備会議における代表者は、宗教家、学者その他各種の階層を含み、共産主義者のみの会合ではない。また会議の議題も平和の諸問題のほか、貿易経済文化交流の問題を含み、原告が本件会議に参加する目的も、アジア太平洋地域の平和促進のため及び日本国と同地域との貿易促進のためである。従つて右会議に参加することは、国益を害するどころか、大いにこれを促進することになるのである。
かように述べた。(立証省略)
被告代理人は、主文同旨の判決を求め、次のとおり答弁した。
原告及び神近市子、宇田耕一、大山郁夫、畑中政春、桜沢和一の六名が外務大臣に対しアジア太平洋地域平和会議準備会議参加のための旅券の発給を申請し、外務大臣が原告主張の日附で原告主張の内容の通知をしたこと、原告主張の人々が昭和二十七年八月末頃から外務大臣に対しアジア太平洋地域平和会議参加のための旅券の発給を申請したこと、原告が旅券の発給を申請する前に旅券発給に関し外務当局と折衝し、原告主張の頃から渋沢外務次官らに面会して、旅券発給の要請をした上で、原告主張の日に外務大臣に対しアジア太平洋地域平和会議参加のための旅券の発給を申請し、外務大臣が昭和二十七年九月十九日原告主張の理由(ほかにも一つ理由あり)で右旅券を発給しないことを決定し、翌二十日原告主張の理由を書いた書面を原告に交付、右決定を通知したこと、原告が以前参議院副議長であつたこと、原告がその主張の日に被告外務大臣に対し、原告主張の異議の申立をしたことは、いずれも認める。
原告が主張するその余の事実は知らない。
旅券法第十三条第一項第五号及び第十九条第一項第四号に関する原告の見解は不当である。
被告外務大臣が原告主張の理由で旅券の発給を拒否したのは正当であり、被告の拒否処分には何ら違法のかどがない。なお被告は、原告の旅券発給申請書に「渡航費用の支払能力を立証する書類一通」がついていないことをも、旅券発給拒否の理由とした。
まず第一に、旅券法第十三条第一項第五号について。
旅券法第十三条第一項第五号は、「外務大臣において、著しく且つ直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」には、旅券の発給を拒否することができる旨規定している。その文言から明らかなように、この規定に当るか否かは、申請者個人について個別的に判断すべきである。しかし一定の地域に何人が渡航しても、それによつて「著しく且つ直接に国の利益又は公安を害する行為を行う虞がある」場合には、この一定の地域へ渡航するための旅券の発給の申請をするすべての個人が右条文にいう者に当ることは、明らかである。
北京市において開催されるアジア太平洋地域平和会議は、共産圏国の主唱にかかり、アジア諸国の赤化を目的とするものである。この会議の特質として見逃し得ない点は、その主要議題たる「平和」は共産圏国特有の方式による平和を意味することである。それは、具体的には、共産圏国自身の軍備と非共産圏国に対する共産化宣伝の手は弛めることなく、他方民主陣営諸国家が共産圏国の赤化政策の強化に対抗して共同防衛的措置をとるのに対しては、その足並を乱そうとする、いわゆる攪乱工作に外ならない。くだいていうと、彼らのいわゆる平和は、まず相手国を無防備の姿にし、次にこれを容易に共産圏内の国とする、ということを意味するものである。従つていわゆる平和会議なるものは、赤化手段の前哨戦とみるべきものである。平和会議の提唱者が民間の有志であるという点も言葉の魔術である。共産国においては、民間の有志が政府の指導と監督を受けずして、自発的に行動するというようなことは、考えられない。
もし今回のアジア太平洋地域平和会議に日本の民間有志が出席することになると、その出席者が何人であるかを問わず、わが国の一般国民は、わが国と共産圏国との間に自由友好の国際関係が確立されたかのごとき誤つた幻想に陥る結果となり、そのことはわが国と共産圏国との間には法律上の戦争状態が継続し、しかも中共は対日平和条約成立以来日本国を敵国視しているという、厳しい現実を糊塗する働きをするものである。
また日本国民が右会議に出席した場合の海外の反響も考えてみる必要がある。いうまでもなく、日本国は日米安全保障条約及び多数連合国との間の講和条約の締結、朝鮮動乱の解決に当る国連軍との協力等により、民主陣営に投じたのである。しかるに日本国民が共産国内に開催される共産国提唱の前記会議に参加して共産式世界平和を論議するということになると、海外へは、日本は共産陣営に対してもその連繋と友好とを希望しているかのごとき印象を与え、結局共産陣営の目標とする民主陣営の共同防衛にくさびを打込む結果を招来することになる。かように、日本外交の基本方針が民主陣営との全面的協力にあるときに、国内に国民の疑惑を招き、海外に日本に対するさいぎの眼を向けしめることは、国の利益を害すること直接且つ顕著である。というに当る。
以上説明のとおり、右平和会議参加のため何人が中共政府支配下の地域に渡航しても、それによつて「著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為を行う」ことになるのである。従つて被告外務大臣が原告の旅券の発給申請に対し、旅券法第十三条第一項第五号に準拠して旅券の発給を拒否したのは、正当である。
第二に、旅券法第十九条第一項第四号について。
旅券法第十九条第一項第四号は、外務大臣は、「旅券の名義人の生命、身体又は財産の保護のために渡航を中止させる必要があると認められる場合」には、旅券の返納を命ずることができる旨を規定している。この規定は、形式的には、旅券返納の規定であつて、旅券の発給制限の規定ではないが、実質的に考えると、旅券の発給をしようとする際にすでに右条文に規定する渡航の中止を必要とする事情が生じている場合には、旅券の発給自体を拒否することができるとしなければならない。旅券を発給しようとする際にすでに右のような事情が存在する場合でも、一応旅券を発給し、しかるのち直ちに右規定によつてその返納を命ずることを要すると解することは、いたずらに無用な形式的手続をとることを要求することになるからである。
ところで、(イ)中共政府支配下の地域には、今なお約五万四千人の邦人が残留している。この残留者には、留用者と婦女子を主とする非留用者とがあるが、留用者の内地帰還は全く許されず、非留用者についても、その大半は内地帰還を切望しているにかかわらず、中共政府側の人道的、積極的な送還対策がないために、内地帰還ができない実状にある。また(ロ)中共政府は、マツカーサー・ラインの越境、スパイ容疑等の理由のもとに、不法に日本漁船をだ捕しており、昭和二十七年九月十一日現在の水産庁の調査によると、中共政府は、同日までに漁船合計八十九隻をだ捕し、わずかに内一隻を返還したにすぎず、しかも同日現在においてだ捕漁船の乗組員百六十三人を抑留している。しかも(ハ)千九百五十年二月十四日モスコー市で締結された中共政府とソ連との間の友好、同盟及び相互援助に関する条約の前文には、「日本帝国主義の復活及び日本国の侵略又は侵略行為について何らかの形式で日本国と連合する他の国の侵略の繰返しを共同で防止する決意にみたされ、………この目的のためにこの条約を締結することに決定し、云々」とあり、右は、日本の西欧的民主々義の発展を故意に曲解し、日本を仮装敵国視する意図を明白にしているのである。
以上(イ)(ロ)(ハ)の事実に徴すると、わが国民で中共支配下の地域に渡航する者の生命、身体又は財産は、大きな危険にさらされるものといわなければならない。従つて、かかる地域への渡航のための旅券発給の申請があつた場合には、外務大臣は、右旅券法の規定に則り、旅券の発給を拒否すべきである。これは日本国のその国民に対する当然の責務であり、原告のいうような保護の押売ではない。
原告のいうように、原告の生命、身体の安全は中共政府が保証したとしても、前記のような中共政府の日本に対する態度、不当抑留、不当だ捕等の事実に徴すると、この保証なるものにはたやすく信頼を寄せることができない。また原告は帆足計、高良とみ、宮腰喜助の先例を挙げているが、前記のとおり多数の同胞が不当に抑留され、多数の漁船が不当にだ捕されている事実に照すと、右のわずかな先例も必ずしも原告の場合に妥当するものとは考えられない。
第三に、申請にあたり、「渡航費用支払能力を立証する書類一通」を提出しないことについて(旅券法第三条第一項第六号)。
旅券の発給申請には、右書類を提出しなければならない。しかるに原告から提出された右に関する書類は、ただ劉寧一から畑中宛の電文の写(乙第八号証の五)のみである。ところで右書面には、単に北京までの旅費が支払われると記載されてあるだけであり、復路の渡航費はもちろん滞在費についても何ら触れていないから、右書面は、旅券法第三条第一項第六号の要件をみたす書類とはいえない。従つて本件旅券発給申請に対しては、旅券を発給すべきでない。
かように述べた。(立証省略)
三、理 由
(一) 旅券の発給拒否と本件取消訴訟の提起
原告が昭和二十七年九月十五日外務大臣に対し中国の北京市で開かれるアジア太平洋地域平和会議参加のための北京市行き旅券の発給申請書を提出し、これに対し外務大臣が同月十九日旅券を発給しない旨決定し、翌二十日「旅券法第十九条第一項第四号及び同法第十三条第一項第五号の趣旨に鑑み、旅券の発給を行わないことに決定した」という理由を付けた書面を原告に交付して、その旨通知したこと、原告が同年九月二十二日右旅券発給拒否の決定に対し外務大臣に異議の申立をしたが、これに対する裁決はまだないことは、当事者間に争いがない。原告の主張によると、アジア太平洋地域平和会議は昭和二十七年九月二十六日から一週間開かれるのであり、従つて外務大臣の裁決を待つて旅券発給拒否処分の取消の訴訟を起したのでは、会議出席に間に合わなくなるおそれがあること、明らかであるから、外務大臣の裁決を経ないまました本訴の提起は適法である、といわなければならない。
(二) 海外渡航の自由
海外渡航の自由は基本的人権の一に属し、何人も、公共の福祉に反しない限り、自由に海外に渡航することができるのである(憲法第二十二条)。しかるに現在の法制においては、旅券を所持しなければ出国することができないことになつているから、(出入国管理令第六十条)、公共の福祉に反するという理由なくして旅券の発給を拒否することは、憲法の認める個人の基本的人権を侵害するものであつて、違法である。
(三) 第一の問題点――旅券法第十三条第一項第五号
本件において、外務大臣が、旅券の発給をしない理由の一は「旅券法第十三条第一項第五号の趣旨に鑑み」というのであるから、原告が右法条にいう「著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」(被告は公安を害する云々は主張しない)に当るかどうかをまず判断しなければならない。
ところで旅券法第十三条第一項第五号は、公安の福祉に反するとの理由で旅券の発給を拒むことができる場合を法定したものであり、「著しく且直接に日本国の利益又は公安を害する行為を行う」ことは公共の福祉に反することであるこというまでもないから、右の規定そのものは適憲ではあるが、基本的人権の制限に関する規定であるから、これを不用意にゆるく解釈適用することのないように注意すべきである。
(四) 日本国の立場(国の利益に関し)
日本国は昭和二十六年九月旧連合国中の多数国、即ち米英その他のいわゆる民主主義国家と講和条約を締結し、なお米国とは安全保障条約をも締結したが、日本国とソ連邦その他少数のいわゆる共産主義国との間には講和条約が成立せず、また中共政府との間には、のちに述べるように、国交が開かれるに至つていない。即ち米英その他の民主主義国との友好関係を促進し、国の安全については主として米国の軍事力に頼ることが、日本国の最高方針として決つた。これは吉田首相を首班とする現政府の方針ではあるが、国権の最高機関である国会によつて承認されたことにもとづくものである。即ち日本国は自らの地位をそのように位置づけたものにほかならないのである。以上のことは公知の事実である。
わが国の方向、その最高方針をこのようにきめたことが、国家百年のために最善であつたか否かについては、人によつてさまざまの見解があるかも知れない。事実「単独講和か全面講和か」をめぐつて識者の間にはげしく意見がたたかわされたことは、周知の事実である。しかしそれは、つきつめると、世界観の争いとなり、政治的立場の相異に帰着する。「日本国の利益」を考えるに当つて、裁判所がかような領域に踏み込んで是非を論議することは、無用、不当なことである。裁判所としては、国会の承認によつて確立された前記の日本国の最高方針を既定のものとして尊重し、これを前提として、「日本国の利益」を害することになるか否かを考えなければならない。
(五) 日本国と中国との関係
終戦後支那大陸に中華人民共和国なる政府があらわれた。これを日本国はまだ承認していないが、この中共政府は、事実上旧国民政府治下の中国領土の大半を支配している。しかし日本国は中共政府を承認せず、従つて両国間には国交が開かれていない。両国間の関係は単なる事実上の関係にとどまつている。のみならず、中共政権は中国国民政府と戦いを交えているに拘らず、日本国は、事実上台湾だけを支配するにすぎない国民政府と講和条約を締結したこと、日本国が、旧連合国中ソヴイエト社会主義共和国連邦その他のいわゆる共産主義国等を除外してアメリカその他のいわゆる民主主義諸国家と講和条約を締結したこと等が原因して、日本国と中共国家との間には非友好的な空気が支配し、しかも中共政府は「日本帝国主義の復活及び日本国の侵害又は侵略行為について何らかの形式で日本国と連合する他の国の侵略の繰返しを共同で防止する決意にみたされ……この目的のためにこの条約を締結することに決定し」(条約の前文)、千九百五十年二月十四日ソ連邦との間に友好、同盟及び相互援助に関する条約を締結して、日本を仮装敵国視する意図を明白にした。以上の事実もまた公知の事実である。
そして乙第六、七号証(真正にできたこと争いなし)と証人土屋隼の証言とを合せ考えると、中共政府支配下の地域には、今なお、五万数千人の生存を確認されている邦人が残留しており、その大半は内地帰還を希望しているに拘らず帰還を許されないのか、または中共政府の積極的な送還対策がないために内地帰還ができない実状にあること、中共政府は、マツカーサー・ラインの越境、スパイ容疑等の理由のもとに、昭和二十七年九月十一日までに日本漁船八十九隻をだ捕し、内一隻を返したにすぎず、しかも同日現在においてだ捕漁船の乗組員百六十二人を抑留していることが認められる。
以上の事実によると、日本国と中共国家との間の事実上の関係は、日本国にとつては不幸なことではあるが非友好的なものであり、しかも中共政府は日本国を仮装敵国視しているという冷厳なものである、といわなければならない。
(六) アジア太平洋地域平和会議について
甲第一号証の一ないし四(証人畑中政春、帆足計の各証言によつてアジア太平洋地域平和会議準備委員会が作つた文書であると認められる)、乙第二号証(外務省欧米局第五課で作つた書類であることに争いがない)と証人新関欽哉の証言とを合せ考えると、次のとおり認めることができる。
一九五一年二月末ベルリン東部地区で開かれたコミンフオルム系の世界平和評議会の第一回会議においては「日本問題の平和的解決に関する決議」を行つた。この決議は、日本人民の意思に反して占領強国によつて行われている日本再武装を非難し、日本との分離講和を行うあらゆる企図を非難し、講和条約締結後占領軍は早急に日本から徹退すべきであり、あらゆる顕在的および秘密な軍事組織と施設は禁止されるべきであるとした上で、「世界平和評議会は、日本問題の平和的解決を実際的に実現するために、最も近い将来において平和擁護を目指す地域的平和会議に平和的に集ることを、このようにして極東における戦争の重大な危険を除くために、日本の友を含むアジアと太平洋沿岸の平和の友に呼びかける」といつて、地域的平和擁護会議を提案した。同年十一月末ウイーンで開かれた同評議会の第二回会議の決議は、サンフランシスコで調印された対日平和条約を攻撃して、同条約が「アジアにおける平和の樹立に役立つものでない」とし、「日米安全保障条約で予定されたように日本の再軍国化と日本領土における外国軍隊の維持がその直接的結果であるこの条約は、太平洋における戦争の危険性を著しく増大する」とし「世界平和評議会は、日本人民を含むアジアと太平洋地域のすべての平和の友に対し、近いうちに平和擁護地域会議を開くことを提案する」といつており、そしてこの会議の目的を、「日本問題の平和的調整を達成し、もつて全般的な平和への重大な脅威を除去することでなければならない」と規定している。
この世界平和評議会の提案、指示にもとづいて、昭和二十七年三月二十一日宋慶齢、郭沫若ら中共の首脳十一名が連名でアジア太平洋地域平和会議(被告のいうアジア太平洋諸国平和擁護大会)準備会議の参加招請状を発した。この準備会議は六月三日から六日まで北京で開かれ、アジア、太平洋、南北両米二十ケ国の代表四十七名がこれに出席した。会議は六日に宣言を発し、輸出禁止、経済封鎖、細菌戦、化学戦、対日分離講和と軍事条約に反対し、アジア太平洋地域の平和愛好者は政治信念の如何に拘らず、すべて来るべき大会に代表を送るようにと、呼びかけた。そして大会は昭和二十七年九月末北京に招集する旨をきめた。大会の議題としては、(イ)アジア太平洋諸国民の独立、自由、平和の擁護、軍拡と戦争準備への抵抗、戦争宣伝と人種的憎悪を刺戟する宣伝の禁止、平和宣伝に対するあらゆる圧迫の禁止、平和運動の自由要求、原子、細菌化学各兵器の禁止、非戦闘員と一般人の爆撃と大量殺りくに対する抗議、国際法遵守の必要性、(ロ)平等にして互恵的かつ正常な国際経済関係および文化交換の発展、封鎖と禁輸に対する抗議、諸国民の生活水準改善、婦人と子供の幸福確保、(ハ)日本再軍国化と侵略のための軍事基地としての日本の利用に反対し、アジアと太平洋地域における重大な脅威の排除を目指す闘争等の事項が予定された。
かように認めることができる。これによると、アジア太平洋地域平和会議は、中共政府の指導に係り、日本問題を主要な議題の一とし、日本国の執つてきた前記方針を攻撃することを少なくとも主要目的の一としている会議である、と認めることができる。
そして乙第三、四号証の各一、二(真正にできたこと争いなし)と証人土屋隼の証言とを合せ考えると、本件の会議へ参加することになつている人の属する国は中共政府と国交関係がある国であり、オーストラリヤ、米国、パキスタン、フイリツピンでは右会議へ参加するための旅券を出さないことにしていることを認めることができる。
以上(四)ないし(六)の事実は、本件を判断する基礎になる事実である。本件で取調べた限りでは、この認定をくつがえすに足りる証拠はない。
(七) 外務大臣の判断
証人土屋隼の証言によると、外務大臣は、以上認定の事実を基礎として、日本国と中国との間が、前記のように非友好的で、中共が日本国を仮装敵国視しているという関係にある現在、その中共治下で開かれる、中共政府首脳の招請に係り、日本国の最高方針を攻撃することが確定している会議に、しかも米国人等が参加しないその会議に、日本国民が参加して、平和を論議することは、「わが国民をして、わが国と共産圏国との間に自由友好な国際関係が確立されたかの如き誤つた幻想に陥らしめ、ひいて中共が日本国を仮装敵国視しているという冷厳な現実を糊塗することになり、また日本国と協力関係にある米国その他のいわゆる民主主義国に対し、日本国は共産陣営とも亦その連繋と友好とを希望しているかのごとき印象を与え、ひいて日本国と米国等民主主義国家との友好関係にひびをいらせ、ことに米国との国交上好ましからざる事態を生ぜしめるおそれがある」ものであつて、それは著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為である、と認定したことが認められる。
(八) 裁判所の判断
前記会議に参加して平和を論議することによつて、外務大臣の考えるような悪い結果が起るか、ことにそれが日本国の利益を害すること、顕著かつ直接といえるかについては、見る人によつて意見のちがいはあろう。しかし外務大臣が取り上げた事情、特に日本国の最高方針を攻撃することを主要目的とする会議に出席し、その論議に参加することは、参加者の意図にかかわらず、そのこと自体その攻撃を助長することになるということを考えると、外務大臣の見方も一つの見方である、といえる。判断の前提たる事実は証拠によつて認定できることであり、この事実から結論を導き出す過程も一応筋が通つている。
この外務大臣の判断も裁判所の審査に服することは、いうまでもない。しかし本件は、以上認定した事実に徴すると、甚だ特殊な事件である。事は原告に旅券を発給すべきか否かにすぎないが、その処置の影響するところ国の外交政策、或いは国の進路に関係するおそれなしとしないと、国政の責任者が観察するような問題を包蔵する事件である。しかるに、裁判所は国政ことに外交について責任ある地位にあるものでない。裁判所の証拠調べでは国政や外交に関する諸情勢を判断する資料が不十分になることがあることも認めざるを得ない。従つてかような事項について裁判所が判断をくだす場合、外務大臣がした判断をくつがえすには、よほど慎重でなければならぬ。その判断が一応人を納得させるものであつて、前提たる事実に誤認がなく、その事実から結論に至る過程が一応筋のとおるものである限り、その判断をもつともとしなければならない。
原告が政党としてはいわゆる社会党左派に属し、元参議院副議長の要職にあつたことは、顕著の事実である。そして原告本人の供述によると、原告は日本国の進路について判断を誤らないために、アジアの人々の話をきき、自分の見解を述べ、見聞を広めるために本件会議に参加したいと希望していることが認められる。原告自身本来日本国の利益を害する行為を行うような人でないことは明らかである。しかし本件会議に参加することが前記のような結果を招来することになる以上、原告の人柄と意図にかかわらず、本件会議に参加しようとする原告は、その限りにおいて、「著しく且つ直接に日本国の利益を害する行為を行う虞があると認めるに足りる相当の理由がある者」に当る、といわなければならない。
当裁判所は、一旦決定した国の方針を論議し、政府の政策を攻撃することを制限しようとするものではない。さようなことを目的とする会議に参加することを悪いというのではない。それは言論、思想等の自由の範囲に属することである。また海外渡航の自由が、民主政治の見地から、極めて重要な国民の基本的人権であるということも、まちがいがない。しかし本件においては、日本国と中国とが前記のような関係にあること、本件会議が前記性質のものであること等諸事情の綜合によつて、前記のような判断をくださざるをえなかつたのである。
(九) 結論
外務大臣が旅券法第十三条第一項第五号によつて原告に対する旅券の発給を拒否したのは、結局正当であるから、その他の点の判断をするまでもなく、原告の請求は理由なしとして、これを棄却し、訴訟費用の負担について行政事件訴訟特例法第一条、民事訴訟法第八十九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 新村義広 入山実 石沢健)